雑記

私が小学校の相談員になった理由

私が小学校の相談員になったのにはもちろん理由があります。
元々教員をしていたこともあり教育には興味があったのですが、二人目の出産後は教職を離れていました。
多分、娘が元気に学校に通っていたら、今の私はなかったと思います。

娘の登校しぶり

現在大学1年生になった娘ですが、小学校3年生のときに登校を渋り始めました。
もともとおとなしく、家以外ではお話しない子でしたので、小学校に上がったときはとても心配でした。

今考えれば、その心配から私が過干渉になっていたかもしれません。
学校もそんなに楽しそうではないけど、2年生までは何事もなく登校していました。
3年生に上がり、担任の先生が男性でよく怒鳴る先生でした。
夫は全く怒らない人なので、怒鳴る男性に初めて出会ったと思います。
自分が怒られているわけではないけど、怒っている場面を見るだけで嫌だったようです。
あとは、「なんで〇〇ちゃんしゃべらないの?」と言われるのも嫌だったようです。
その他にも色んな要素が重なり、登校を渋るようになりました。
当時の私は、それが受け入れきれず無理やり学校に引っ張っていきました。
ただでさえおとなしい子。このまま不登校になったらこの子はどうやって社会とつながるのだろうと思っていたのです。

なんとか3年生をやり過ごし、4年生になると担任の先生の関わりもとても良かったのでしょう。
1日だけ渋りはありましたが、何事もなく登校できていました。
今聞いても4年生が楽しかったと答えます。

娘との関係悪化と自己嫌悪

そして5年生。少々厳しめの担任の先生になりましたが、頑張って登校していた娘。
時期はよく覚えていませんが、後半に渋りが出ました。
担任の先生も心当たりが無いようで本人も理由を言いません。
そのうち言い出した理由が仲のいいお友達に無視されるということでした。
その仲のいい子は娘が休んだ日には家が反対方向なのに、プリントを届けてくれていました。
それなのに無視する!?
私は娘を信じてあげることができませんでした。
担任の先生にお話しても、その子が自分からプリントを届けると言っていたそうで、先生も首をかしげていました。

娘の気持ちを理解せず、登校させようとしていた私は無理に引っ張ったり、ひどいことを言ったり。
今考えると恐ろしいです・・・。
それでも娘は私に訴えていました。休む時もだいぶ私に気を遣っていたと思います。
そして休日はごく普通に私に接してきました。(娘のほうが大人でしたね^^。)
幸い主人が娘の味方であったため、娘の話を聞いていてくれました。
私はまだ受け入れることができないまま、無理に引っ張ったり休ませたりの繰り返しです。
毎日朝がくるのが嫌でした。 

私自身、怒ってしまう自分に嫌気が差したり
娘に腹が立ったり。主人に腹が立ったり。
こうなったのは自分のせいだと自己嫌悪に陥ったり。
多分今まで生きてきた中で最悪の時期だったかもしれません。

休ませる日は連絡を入れていたのですが、疲れ果てて「入れなくてもわかるだろう」と思い
たった一度連絡を入れなかった日、担任の先生から連絡があり「休むときは電話してほしい」
と言われました。 とても虚しくなったのを覚えています。 更に自分を責めました。

このように不登校の子自身もそうですが、保護者にも本当にいろいろな葛藤があります。
娘には本当にいろんなことを教えてもらったと思います。

登校しぶりを受け入れるまで

そんなある日、娘が休んだ日にお友達が何人かで遊びに来てくれました。
もちろん例の子も一緒です。
家で楽しそうに遊んでいるとき、娘が言っていた「無視される」のを目の当たりにしました。 堂々と無視しているわけではないけど、明らかに娘を避けています。

私はとてもショックでした。その子が娘を無視しているのを目の当たりしたのももちろんですが、信じてあげられなかった自分に腹が立ちました。

お友達が帰ったあと、娘に謝りました。
娘は「前から言ってるでしょ」とそんな感じでした。本当に私よりずっと大人な娘です。

その後、担任の先生からの勧めもあり、病院受診をしました。
心療内科です。最初はとても敷居が高く、予約をするのに勇気が入りました。
でも娘が受診したいと言っていたので、予約し2ヶ月待ちで受診しました。

受診時は私と娘、別々に面談されました。その後一緒に面談という形です。
とても気さくなおじいちゃん先生で、娘の気持ちを面白く表現してくれました。
娘も笑顔で納得していました。私もとても心が落ち着いていったのを覚えています。
受診して本当に良かったと思います。
受診したことでやっとすべて受け入れることができたと思います。
残りの5年生の学校生活は彼女のペースに合わせて保健室を利用したりしていました。

そして6年生になった初日、新しいクラスへへ入った娘でしたが、何気ない男の子の一言で
2日目にして登校できなくなりました。
いよいよ本格的な不登校だなと覚悟しました。
残念ながら新しい担任の先生は相談にのってくれる方ではありませんでした。
私は諦めて、フリースクールを探し始めましたが、すごくお金がかかります。
担任の先生はフリースクールを探していると言っても
「ああ、そうですか。では荷物取りに来てください」という感じでした。
そこへたまたま楽しかった4年生の時の担任の先生が通りがかり、話を聞いてくれたのです。
先生は学校の相談室を紹介してくださいました。 
そのような別室があることは知らされてもいませんでした。
そこで相談室の先生とお話ができて、別室登校という形をとることができたのです。
あの時、4年の時の担任の先生が通りかかってくれなければ、荷物をまとめて学校から出ていっていたかもしれません。

娘の変化

時期ははっきりと覚えていませんが、5月か6月だったと思います。娘の相談室登校が始まりました。

心療内科は2回ほど受診して終了し、その後は市の教育委員会の相談機関を利用し始めました。
娘は週に1度、私は2週間に1度面談していただきました。
娘の面談をしてくださった相談員の方が若く、とても柔らかい印象の方で聞き上手な方だったのでしょう。
もちろん詳しくは聞きませんでしたが、娘もいろんなことが話せたようです。
面談を重ねる度に娘の表情が明るくなっていくのがよくわかりました。
週一度の面談をとても楽しみにし、頑張って相談室へも登校していました。
相談室には同じ学年の娘と似たようなおとなしい女の子もいて、この子とお友達になれたのも良かったのかもしれません。
娘の状況に合わせ、面談も週一度が2週間に一度になり、6年生の2月頃には終結しました。
卒業式の練習には出ることはありませんでしたが、卒業式には参加することができました。
結局一度もあの後、6年生の教室には入りませんでしたが私は相談室登校ができてとても良かったと思っています。

私の変化

娘が面談によってどんどん変わっていく姿を見て、私にも変化が訪れました。
自分がいかに娘の気持ちを理解していなかったか
自分がいかに娘の話を聞いていなかったか
自分がどれだけ周りの評価を気にしていたか
を思い知らされました。
でも娘がどんどん変化していくのを見て、とてもうれしかったし、面白かったのです。
話を聞いてもらえるだけでこんなに子どもが変わるのが面白かったのです。
娘を変えようとするのではなく、自分が変わらなければいけなかったのだと気づいたのも
その時だったと思います。
長くなりましたが(笑)、そのことがきっかけで相談員になろうと決心しました。

その後

娘は中学校に入りすんなりと教室に入りました。
彼女らしく中学時代を過ごし、高校生になると気の合う友だちもできて楽しそうに過ごしていました。
そして今年、晴れて大学生となり地元を離れ一人暮らしをしています。

私は彼女が中学校に入るタイミングで県のスクールソーシャルワーカーを1年だけですが
経験させてもらいました。
そしてもっと近くでたくさんの子どもたちを見たいと思い、小学校の教育相談員になり、現在6年目です。
やはり娘との経験は原点です。
後悔しても仕方ないけど、保護者の気持ちは痛いほどわかりますし、子どもの気持ちを代弁することもできるようになったと思います。
今の私があるのは娘のおかげ。
「本当にごめんね。そしてありがとう」をいつまでも忘れません。

お互いつらい経験ではあったけど、少なくとも私にとっては決して無駄な経験ではなかったと思っています。
何より救いなのは娘が働く私を見て心理士を目指し始めたことです。
今の私にできることは娘の応援です。頑張れ娘! あなたなら大丈夫!